先般よしりん先生に送ったメールの中で、法律家共同体の独自の感覚についての描写でまるでよしりん先生やゴー宣道場及び関係者の方々を侮辱するような印象を与える結果を招くような大変失礼な表現を用いてしまったことをお詫びしたいです。真意はそこにはありません。
専門家集団にはギルド的な独自の小宇宙があります。しかし、今回憲法改正について、我々が台風の目になるために、そこを巻き込んで求心力と拡散力を増すために、この2月?6月の道場を成功させることに大きな意義があるという強い思いがあります。
例えば刑法や民法はじめその他の法律のときは法制審や労政審(今裁量労働制で話題になっている働き方改革法案)で専門家に諮り、法案を練っていきます。
これは当然のことです。医者や医療のプロにきかずに医療制度を組み立てたり、極端な話注射をすることはないでしょう。様々な分野で、その分野の専門知を生かす、この専門知が専門的研究をできるために、憲法は特別に憲法23条で「学問の自由」を保障しています。これを社会に還元しない手はないのです。
しかし、こと憲法に関しては、国会の場で専門家が憲法改正手続きやその内容について何等かの有識者会議や委員会等を構成して、専門家集団の意見を反映させるということが皆無なのです(党の勉強会にヒアリングで一人一人呼ぶようなことはあっても、体系的総合的に憲法学者等法律専門家がまとまった報告書や改憲提案を構想することはありません。)
欧米はもちろん、韓国でも改憲については憲法研究者はもちろん、憲法学会や法律家集団はその内容等について、積極的に関与し、改憲をよりよいものにするために関与します(これに最も逆行しているのが、何のビジョンも関係なく、議員一人一人から“条文案”なるものを提出させるという(!)、自民党のやり方)。
と同時に、一方で、医療や他の専門領域と違うのは、憲法を制定する力をもっている(憲法制定権力)のは我々国民だということです。我々がどのようにこの社会に生きる「個人」像やこの国のかたちを構想するかが極めて重要です。これを吸い上げた(はずの)代表者たる国会議員の総議員の3分の2で発議をし、国民投票でその改正の是非を決するのです。
そのためには、我々市民と、専門知と、そして国会の場が有機的につながり、憲法改正の議論が形成されていくことが不可欠であります。
しかし、先にも見たように、憲法議論は、護憲VS改憲に分断され、専門知は活用されず、国会の場では有効な議論がなされてこなかった。そのツケとして、無意味な安倍加憲で初の憲法改正発議を迎えようとしているのです。
この70年間できなかった、市民、専門知、国会の場を、有機的につなげるという試みを唯一実現できうるのが、ゴー宣道場であり、その萌芽はもうすでにうまれています。
誰もしたことがない試みを結実させることができる土壌をもつ道場で、引き続きできることをがんばっていきたいと思います。